Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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明野E




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既にクル―ザ―の発着場からゆっくりと歩き出している何の変哲も無い人々が、カウンタ
―バ―『密緒』の集合ディスプレイのかたわ傍らで今立ち止まる。部屋の壁面の鏡には、超年代
者のルネ・マグリットの絵画の極めてびしょう微小なレプリカがうつ映し出されている。其処にえが描かれ
た、これ之も又、特性の無い人々が、鏡のむ向こう側から俺の眼をじっ熟とみつ見詰めている。よく見る
と、眼球に赤外線暗視スコ―プが埋め込まれて?いる。そんな筈は無いのだが。ふ降りそそ注ぐ
赤い光のたば束と共に、俺には見えない筈の光景が浮かび上がって来る。この俺の脳裡の、鋭
い痛みと共に……
  
 ……それは、最早その日付を辿る事さえ不可能な、遠い昔の冬の日のことだった。時空
の配置図から予定通り遺棄されたかの様な街角の舗道の上――例えば、かた固く閉じられた店
のさ錆び付いたシャッタ─の前や、古びたアパ─トの入り口につら連なるコンクリ─トブロック
の小さな階段のました真下に、今にも死にかけている、或いはもう死んでしまっているのかも知
れない、行きだお倒れの人々が横たわっていた。彼らの顔は、その傍らを通り過ぎていく人々
のまなざ眼差しから、うすよご薄汚れた毛布やぼろ切れの様な衣服でさえぎ遮られている。その時、既に彼らの
顔は消されていたのだった。
黄昏の街をでんぱ伝播していく、赤外線暗視スコ─プの二つの眼球が、次第にヴァミリオンの
光が浸透し始めた青白い半透明の大気の中に浮かび上がっている。それがこの小さな街を
包み込み、外との連絡を断ち切っている。俺は赤くてんめつ点滅するその眼球が一人の男のふらつ
く後ろ姿をとら捕えるのを見た。ほどな程無くしてその男は力尽きてうずくま蹲り、そのまま倒れ、路上にうつぶ俯
せに横たわった。俺と男との間で、一見男とにかよ似通った姿をしてぎそう偽装した何の変哲も無い者
たちが、りょううで両腕で支えた暗視スコ─プを自身の二つの眼球にぴったりとあてが宛い続けている?
(様に見える)。光景の全体に、たいろ退路をた断たれた男(たち)をはが羽交いじ締めにする、あの赤い
光のたば束が降り注いでいる……。
俺がその街に辿り着いたのは、既にかなりの人々がう飢えと寒さのため為に死んだ後だった。
だが、彼らの叫びは、断続しながら、未だ生き続けていた。俺は、何者かに、彼らに対す
る反感の眼差しを植え付けられていた。死んでいく者たちを、見捨て、忘れる様にと。あ
の暗視スコ─プの光線は、絶えず俺にも向けられていた。俺も既に感染しているのだった。
彼らを貫くあの赤い光線の束に。その光の束は、俺の眼差しを反感の眼差しへと反転させ
る。俺の身体の無数のひだ襞と化した眼差しが、反転しながら俺自身の監視とコントロ─ルを
開始する。それら光線の束が一体いつ、どこからやって来るのか、もはや最早分からない。それ
はいつでも、どこでもない時空の裏側からこの俺を見つめ続けている。
そう、忘れよう、死んでいく者たちのことは――。だが、その時俺は、彼らの〈外〉に
いただろうか?
 振り返ると、二十人程のあの何の変哲も無い者たちが、ごそうしゃ護送車で――当時既に『アリア
ドネ・クラブ』の名前がその背後で囁かれていた――『準生体政治工学分析管理局』の第
***セクションが設置されている区域へといそう移送されていくところだった。何の変哲も無
い者たちは、その名の通り互いに全くみわ見分けがた難かった。そろ揃ってくたびれた灰色の作業ズボ
ンにどこにでも有りそうな安物のこん紺のジャンパ─、そしてガ─ゼマスク。しかし、マスク
上部の眼球を覆う暗視スコ─プは、やがてやって来る真のくらやみ暗闇の接近に、そしてきた来るべき
戦いにそな備えて恒常的な使用にた耐える様にセットされていた。今やそれは彼らのスペア眼球
に連結され、その裏側から伸びた準生体細胞のしょくしゅ触手が視神経と大脳皮質を連絡する形で埋
め込まれている。彼ら自身の力でその眼球を除去することは出来ないだろう。今や彼らは
夜行性のちんぷ陳腐なしか仕掛けに改変されているのだから。彼らの元には、既に永遠の夜がおとず訪れて
いる。えもの獲物を狙う仕掛けたちが作動する。永遠の夜、真の暗闇のえじき餌食に成るのは、彼ら自
身だ。
彼らも、未だ其処迄は気付いていない様だ。だが、その仕掛けがここ迄シンプルであるこ
とに嘗て気付いた者がいただろうか? 獲物を狙うどころか、眼差しが自分自身のみを永
遠に眼差し続ける為に、即ち、他ならぬ自分自身が生み出す悪夢を見続ける為に、自らの
上にぴったりと覆いかぶ被さり、自分で自分を完全に閉じてしまうのだ。――反感という眼差
し、或いは、最も退屈な運命。それもいいだろう。だが、それで一体彼らは何を見ること
になるのか? 終わり無き戦争? 恐らく、この問いに答えられる者はいない。彼らとは、
この俺のことでもある。俺は既に、この街に閉じ込められている。そのことに、俺は既に
気付いている。

――そう、それは既に起こってしまった。最早取り返し様も無く。時空の彼方で、決して
追い着けない、一つの鮮明な光景として。それは誰かの、そして同時に、俺自身の光景だ。
俺は、〈自己〉という名前を持つ〈出来事〉を恐れるのだ。だが、その恐れをあざ嘲笑い、その
裏をか掻くかの様に、ディスプレイには一筋のきれつ亀裂が走り始めている……。
カウンタ─テ─ブルの背後にの延びる影の領域で、語り合う声――

「それこそ、或る見えないゲ―ムに組み込まれた俺たち皆が、永い時の流れの中で引きつ継い
で来たものなのだとしたら?」
「という、ル―ル? で、あのエピメニデスのパラドックスを、あなたの言う、かくもふきつ不吉
ならくいん烙印として消すため?」
「そう。ありとあらゆる『人類の改善者たちVerbesserer』を生み出しながらね。――そし
て、それと引きか換えに、現に存在している/いた皆がすっかり消されてしまうんだ。最早
誰もいなくなると言ってもいい。すばら素晴らしいよね」
「でも、その『改善者たち』、どこから来たの?」
「どこから生まれたのって聞かないのかい? 或いは、どこの工場で造ったのって。何だ
って、どっかの工場で造られるんだよ」
「ふふ、何だか、私もう答聞いたことある様な気がしてきたわ。よく分からないけど……。
でもそれって、ちょっと恐い」
「いつも、そうさ。いつも、どんな答も、そんな気がするものだ。いつかどこかで、誰か
から、聞いたことがある様な。でも知ってしまうのが、恐い様な気が……。と言うのも、
あの『改善者たち』を欲し、そして生み出したのは、他でもない俺たち皆だったからだ…
…」
「とっても忙しいってことね? 私たちも、その人たちも、どっちも。今は私、それ以上
考えたくない。……でも、あと戻りはきかないの? 私たち、いつまでも同じことを繰り
返さなければならないの? 「あと」がどっかにあれば、の話だけれど。――でも、それ
よりさ、見えないカ―ドのシャッフルみたいに……」
「好きなんだね、やっぱり、そういうの。いいよ。思い切ってサイコロふ振ってごらん。い
ずれにしても、たとえ何を生み出すにせよ、偶然のいたずら悪戯が不可欠なんだ。絶対に。そう、
やってごらん。誰も止めはしないから……」

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以下の記録は、あのカウンタ―バ―で俺が発見した、もういつのものかも分からない、恐
らくはずっと昔の手記だ。日付も、それが誰によるものなのかも俺には分からない。だが、
この様な記録は、何ら特異なものではない。無数に存在するのだ。

「ぼくは、たぶん、女の子として生み出された。……でも、ぼくは、たぶん、男の子です。
だれかに聞かれたら、いつでも、そう答えなくちゃいけないから。でも、ほんとうに答え
られるかな。ちゃんと答えられるか、ぼくはとても心配です。いつまでがんばれるか、ぼ
くは分かりません。いつまで生きれるのか、ぼくは分かりません。ぼくは、だれにも話せ
ないから、だれも助けてくれないから、生きているのが、苦しいです」

この手記の「ぼく」が次の調査対象の誰かと一体どんな関係に在るのか――それは分から
ない。それを「知ること」は、俺の仕事ではない。仮令在ったとしても、どこにでも在る
様な、あ有りふ触れたものだろう。だが、俺は聞き取り調査を続けた。俺をあてさき宛先として、そのつど都度
課せられる順序に従って。むだ無駄なのは分っている。この街にいる限り。いまさら今更絶望する程バ
カじゃないだろ。とにかく、この俺も、そして相手も、消されていく前に……。勿論、調
査を続けることで、俺自身もモニタ―されることになる。俺がどこにいようとみか見掛ける、
あの何の変哲も無い者たちに。――狙われているって? 無論、そんな言い方も出来る。
しかし、「狙いを定めた視線」の持つ意味を解体してしまう様な、あの何の変哲も無い者た
ちに、モニタ―或いは分析の意識は無いだろう。丁度この俺の様に。多分、俺もやつらを
モニタ―し、分析している。その意識は無くても。である以上、やつらにとっても、この
俺は何の変哲も無い者たちの一人に過ぎない。だが、この俺とやつらの間に、極く僅かな
差異すらも無いのだろうか? その差異のほうが萌芽となり得る唯一つのファクタ―すら探し出
せないのか? 分からない。そもそもこの俺に、状況に対する、そして自分自身に対する
疑いの意識が有るのかどうか、それすら確かなことではないのだ。疑うことそのものを疑
う、絶対的なかいぎ懐疑にたた叩き込まれたのだとするなら。だが――あのテキストに拠るなら――
その絶対的な懐疑が其処から導かれる「あざむ欺く神」は、あらかじ予め「神の誠実さ」に裏打ちされ
た存在でしか無かった。この俺を、世界をこの瞬間も絶えず産み出し続けている「誠実な
神」は、同時に「欺く神」では在り得ない。「欺く神」の仮定は、まさに「神の誠実さ」を、
即ち、「永遠に誠実な神の存在」こそをあか証すのだ。しかし、「誠実な神」の植民地であり実
験場であるこの街においては、「誠実な神」は、同時に「欺く神」であるほか外ない。絶対的な
誠実さで、俺たちを欺き続ける神……。この街では、誰もが共犯者となって、全てを誠実
に疑うという訓練を無限に反復している。このちめいてき致命的な事態は、別に今に始まった訳では
ない。(俺がこの街で目覚めた時には既に――) 

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「……で、やっぱりいきなりかも知れないけれど聞いておきたいんですが……いいです
か? 本当に? 一体、なぜ何故なんです?」
「……命令です」
「命令? 何ですか、それは。誰かあなたに命令したんですか? そんな……訳ないです
よね」
「……ええ、違います。命令は、誰かのものじゃありません。でも、私にとっては、絶対
の命令なのです。この世の中の、誰のものでもなくても……。はっきりその言葉を聞いた
のは、その時が初めてでしたが……恐らく、もうずっと前から、ずっと昔からそれは……。
私に聞き取れなかっただけだったんです。その頃は未だ、私にはかくご覚悟がありませんでした
し……。それだけは、た耐えられませんから……」
「しかし……こういう言い方は、かなりあぶ危ないかも知れませんが……何か、あなたの心の、
どうしようもない呼び掛けがあった訳ですか。しかし何故それが、あのことに迄……結び
付いてしまうんです?」
「ですから……結び付いたのではありません。しょうしんしょうめい正真正銘の言葉だったのです。文字通りの、
そのままの。私をため試す、最後の呼び掛け……。今思えば、生まれた時から、はっきり聞こ
えこそしませんでしたが、私はあの声に試されていたのだと思います。完全に生まれ変わ
る様にと、そのチャンスがすぐ其処にある、何故お前は気付かないんだと……。私は、最
後の選択をせま迫られたのです。はっきりと私に呼び掛けてきたあの時よりずっと前から多分
その声に従っていた、『私自身の完全な作りか替えのプログラム』通りに」
「………」
「……私は最後の選択をし、あのプログラムと引きか換えに、最愛の娘をまっしょう抹消しました。未
だ幼かった頃の私にいつまでもそっくりだった、まるでき生のままの私自身をいつまでもたた湛
えている泉の様だったあの娘を。最愛の他者をいけにえ生贄にささ捧げるということ、それがプログラ
ムの絶対的な要請だからです。全ては其処から始まるからです。しかし、今だからこそ、
やっとの思いで、あの子についてこんなことを言えるのです。本当は、私はあの子を見て
いなかった。これ程の永い時間の中でも、何も……。今になって、この胸の大きな裂け目
から、止めども無く、私とあの子の血が一緒になってあふ溢れ出してきます。決して誰にも止
めることの出来ない血が……。あなたには、とても信じられないでしょう。この私自身も
です。私はずっと、あの子から眼をそむ背けていたのです。自分自身から眼を背ける様にして。
いや、様にではない、まさに私は、自分自身から眼を背けていたのです。あま余りにそれが、
苦しかったから…… 未だあの呼び掛けがはっきり聞こえ始める以前から、あの沈黙の声に
従って……。眼を背けたからこそ、私はほろ滅びました。この私をあの子が徹底的にぐろう愚弄し始
め、そして……この私が最後の選択をし、あの子を消すことで私自身を滅ぼすことになっ
たのも、全ては私の所為なのです。私自身の……」
「……私の人生の一切をか賭けた、あの『私自身の完全な作り替えのプログラム』。だが其処
には、決して消すことの出来ない何かが書き込まれていた。それは、は恥ずべき烙印。在る
べき所に決して存在せず、欠けているもの。それなのに、在るべきではない所に必ず顔を
出し、私の顔をぬす盗み取ってしまうもの。どんなに私が努力しても、いつも私をいらだ苛立たせ、
苦しめ、もし私が滅ぼさなければ、いつか必ず、この私を滅ぼしてしまうもの……。ああ、
この肉体が、そしてそれにから絡み付いたこの思考が、いつか焼きつ尽くされてしまえばいいの
に。私の肉体は、到る所どす黒くむく浮腫んでいるのに、私自身はふにゃふにゃとしぼ萎んで、無
くなってしまう。そのどちらも、この私なのです……」
(だからこそ、それは其処に存在していた。決して排除出来ず、消え失せてしまわないも
の。忘れられれば忘れられる程、しつよう執拗に生き延びる、私たち全てにとってのあの未知の名
前……。――或いは、我々人間というコインの裏側である、危険な、見知らぬ他者として
……)

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……その部屋では、何故かいつもつ点けっぱなしのディスプレイ画像がやみ闇の中に浮かび上
がっていた。私は眼を疑った。あの余りにもなつ懐かしのウルトラマン――或いはそれも、あ
の『人類の改善者たち』かも知れない――が、真っ赤な血を流しながら、まさに今たお倒れよ
うとしている。しかもその場面は、いつ果てるとも無く繰り返されているのだった。おそ恐ら
く、永い時の流れの中で。ウルトラマンの顔は、恰もすっぽりとく刳りぬ貫かれたかの様に、
それ自体がうつ空ろな穴と化していた。せんけつ鮮血はその内部から吹き出ている。その空ろな穴は、
未だ嘗てこのウルトラマン程孤独だった者がいただろうか、と我々人間にうった訴えている様だ
った。だが何故、我々人間に訴える必要があったのか?

「何だって? それは一体どういう問いだ? ウルトラマンぐらい誰でも知ってるよ。ず
っと昔から一応でんしょう伝承されてるだろ。超年代物のビデオすら未だ残されている。今や、殆ど
神話的テキスト或いは聖書として。ウルトラマンが、或る時期人類を実際に救済した神の
けしん化身又は使者だと信じられているふし節さえある。ことさら殊更にふる旧めかしいビデオが、その救済の物
語を今に伝えているという訳だ。現に、過去いく幾つかの教団が、その救済計画を実行しよう
としたらしい。それ自体、ちょっと信じ難い事だが。全く冗談じゃ無い。それがどうした
って言うんだ?」
「とにかく彼は、ずっと昔からこの街迄やって来ていたらしい」
「今更何かを警告しようとでも? 恐ろしくこふう古風な言い方をすれば、身体を張って? ま
さか?」
――だが、その結果がこうだ。それが画面の左半分。で、残りの右半分は、『〈自分〉
という迷宮と世界のゆくえ行方』というテ―マで後ろ向きのシルエット影像の二人が話している場面が、こ
れもいつまでも繰り返されていた……
(私は今、絶えず繰り返されるその声を聞く。だが画面自体は、時々瞬時に左右の映像が
切り替わったり、暫らく左側、或いは右側の映像だけになったりしている。その声は、画
像の内側からと言うよりも、むし寧ろ画像の背後から聞こえて来る。)

「……そう、我々の最後の叫びが、我々自身も含めて、誰にも届かない。其処に誰もいな
いからではなく、たとえ誰がいようとも、誰の耳にも。何故なら、その誰かは、最早誰で
もないからだ……」
「だが、それを逆手に取れなくてどうするんだ? さっきも言っただろ。意外かも知れな
いが、それも今に始まったことじゃない。いいかい、その時大切なことは、唯これだけだ。
俺たちが、一体どういう線を引くのか。その線が、振り出されるサイコロの目とどこでど
う出逢うのか。そして、その目の数え方も、決して一通りじゃない。だから……」
「ところで、あの娘は、それから一体どこへ行ったの?
「それは、つまり、こういうこと。自分という迷宮がそもそも、どこにあるのか……」
「じゃあ、先ず最初のカ―ドは?」
「先ずは、こう。他人が入り込んでくる自分というものが、どこかに予め在るわけじゃな
い」
「じゃあ、未だ自分というものではないから空の部屋っていうのも?」
「そう。それは部屋と言うよりも、寧ろ工場だと言ったほうがいい。俺は其処から生まれ
てきたし、あんたもそう」
「何故、私だと分かるの? その私があなたにせよ、この私にせよ」
「あんたは俺のすぐとなり隣にいたから。もっともあんたに限らず、あんたたちは皆、俺の隣に
いたんだけどね」 
「分からないわ……。そこで、あ敢えてバカなことを聞くなら、一体いつのこと?」
「そのことなら、やはりマヌケな答しかないよね。俺が生まれてきたちょうどその時、あ
んたはすぐ隣の穴から生まれてきた」
「はは、じゃあもう一度聞くけど、そんなことが、何故分かるの?」
「分かるっていうより、何故か、未だ眼が見えなかった筈の俺にはその記憶がある」
「へえ、記憶なの。意外よね、その言葉は。一卵性双生児の姉妹と、病室で一つのまくら枕を奪
い合ったというような……? 或いは、私とあなたが、ひょっとしていつか共有していた、
同じ細胞の風景? あなた、実は同じ何かから私と一緒に《造り出された自己》じゃない
って、その記憶で言い切れる?」
「《造り出された自己》か……。やけに懐かしい言い方だな。今更あんたらしくも無い。相
変わらず、造り出す者(神か?)と造り出された者(被造物?)との差異、或いは序列が
ある訳か。とっちかがどっちかを見守ったり、世話したり、消したりま復たねつぞう捏造したり。―
―で、退屈になったら世界や役割を交換したりして? まあ、少なくても今は、そういっ
た違いは関係ない。それに、所謂クロ―ンだろうが人工生命だろうが、ここで今更そんな
素材を持ち出す迄も無いんだ。話のレベルが違う」
「あら、違わないでしょう。あなたが思ってる程。いずれにしても同じことよ。私は今、
態と〈風景〉と言った筈だけど。其処で枕を奪い合った病室の風景。或いは、細胞の、そ
してディスプレイの中の――と言うより、その彼方の風景……」
「まあ、待ってくれ。それじゃあ、あんたが俺にとって一体誰なのか、今は問わない。じ
ゃそろそろ、工場そのものについて話そうか」
「私が産まれた――と一応言っておくけど――病院は、幾つも工場を経営してるわよ。そ
れこそ無数の工場を、到る所に、あらゆるレベルで。勿論、あなたも知ってるでしょうけ
ど」
「で、その病院のことだけど……」
「別に言いよど淀むことなんかないでしょう、今更。この画像なら、とっくに……のネットワ
―クを通じて(いつも機能ふぜん不全の)WWWに流れてるわ。それで、何だっていうの」
「つまり、……誰一人其処で働いていなかった」
「勿論、働かせる者たちもいない」
「いわゆる所謂、機械もない」
「無人工場であるのみならず、無工場。ひょっとすると、工場でさえないんじゃない?」
「とにかく、何もない室内。すっきりしていると言えば、言えるよね。敢えてそう言えば
の話だけど」
「私は、今でも(っていう言い方も変だけど)そう思ってるけど。でも、とにかく退屈きわ極ま
りないわ。わくわくすることなんか何もないじゃない。この真相に誰か気付いたら、きっ
とこう言うわよね。誰がこんなムダなものを作ったのか、って」
「だが、其処には既に俺がいたし、そしてあんたも、いや、あんたたち皆がいた」
「で、かなり先回りするけど、こうでしょ? 誰一人其処で働いていなくても、工場の様
子は隠しカメラによって常に監視されている。また其処は、あらゆる方向へと光が反射し
合う壁にかこ囲まれていて、無(人)の室内が絶えず映し出されている。そこで、おいおい、
それはどういうことだ? たった今、私もあなたも、そして皆が其処にいたと言ったばか
りじゃないか、と問われることになる」
「しかし、やはり室内は無(人)、カメラの眼差しにとら捉えられる室内は、あくまで無(人)。
そこで次の問いは、では一体、俺やあんたたち、或いは皆はどこにいたのか?になる」
「どんどんゆうどう誘導されるわけね。問いそのものが。誰かが誘導してる訳じゃないのに。罠で
も仕掛けて。で、その問いだけど……」
「もし、其処にいなかったのなら、皆と一緒にカメラをのぞ覗いていたに違いない。無(人)
の室内をじっと覗いていたわけ。俺やあんたたちは、この皆でもあるのだから、これは当
然じゃない? 他方もし、其処にいたのなら、その同じ皆に覗かれていたに違いない」
「さて、どちらかしら? いくらなんでも、このままじゃ、まずいでしょ」
「未だ、あわ慌てて答を出すのは……」
「ふふ……。あなた、そういう見せ掛けが好きね、ほんとに。もういいかげん加減、いや最初っ
から、しゃべ喋りたくって仕方ないくせに」
「やっと其処迄来たんで、つい。噂話は、皆好きだろ? いくら恐ろしくても、それだけ
面白い筈。自分がする方なら」
「でも、それがいつひっくり返るか分からないっていうのが……」
「スリリングだよね」
「あなた、自分でた耐えられないことよく言える……それに、未だ若いのに、スリリングだ
なんて……あなたこそ、スゴイわよね。それ。しご死語じゃない」
「そう、まさに死語。でも、死語って、もう死語だろ。そこで、とっくに死んだ筈の、死
語が死語でなくなって、いつしかその姿を表す。例えば、人や場所の名前とか、つまり、
噂話のことだけど……」
「あの話でしょ? たかがウェブペ―ジにすら、一週間連続で流せないっていう」
「そう、勇気が無いね、そんなこと。誰だか知れたら、それこそ……。ところでその話に
よると、工場は、つるつるした壁に囲まれた赤ちゃんが、その壁にぶつかっていく勇気を
与えるかに見えて、いつでも同じ動き、同じ形、同じ黒い影が接近してくること、何度ぶ
つかってもそれを乗り越えられないこと、その黒い影を消そうとしても常にじゃま邪魔されてし
まうことを教える」
「最初の壁にぶつかった赤ちゃんの、泣き声か。今は亡きあの人みたいに、皮肉で、ものがな物悲し
くて、しかも避け難いわ。(きりすと基督暦1949 年チュ―リッヒ、あのラカンの「鏡像段階
stade du miroir/mirror phase」のこと?) 
 でも――そう、赤ちゃんは学ぶのね!」
「それと一緒に、これからずっと生きなければならないことを」
「さて、と……。残りのすじが筋書きは?」
「工場あるいは皆は赤ちゃんのすこ健やかな成長を見守り、そのことを彼/彼女にそっと教え
ようとする。工場或いは皆が隠しカメラを使って赤ちゃんの成長日記というたぐい類の作品を制
作し続けていることに彼/彼女が気付くのは、あの黒い影が、この工場では〈私〉という
名前を持つことを学ぶとき――」
「それで? それって、もしかしてジョ─シキじゃない?」
「そう? で、今俺は、自分というものについて書いている」
「ふうん、そうだったの。へへえ。はため傍目には、必ずしもそうは見えないわよね」
「ま、いいけど。で、工場の生産ラインは、文字を学んだ俺が、皆と工場の隠しカメラで
室内を覗きながら、その室内で覗かれる自分というものをさが探すこと、つまり書くという営
みによって完成するかに見える。これで、話は最後かな?」
「いや、そうじゃない。でしょ? この書く/書きか換えるということは、言わばそれ自体
落書きで、絶えずサイコロのように脱線するくせ癖があるんで、あの壁のちょっとした裂け目
から抜け出しては散歩に出かけ、ふと振り向いて笑いながら工場をなが眺めることが出来る。
その時、笑いと共に、あれ程恐れていた苦痛に立ち向かう勇気が生まれる。そう、あの自
分という迷宮を、何度もぬ脱ぎす捨てながら――」
   8
(湾岸の倉庫街に近い、このエリアでほとん殆ど唯一の青物市場で、或る時期、あの娘は働いて
いたらしい。残念だが、もう其処にはいない様だ。どこに行ったのだろう。だが、その時
期、既に誰かがあの娘にインタヴュ─をしていた。俺はその記録を、あの行き付けのカウ
ンタ─バ─のディスプレイへと呼び出すことに成功した。彼女は未だこの街にいるのか?
未だ間に合うのか? ――「未だ」だって? だが、それはいつのことだ? 今は一体いつ
だろう?) 
その時――

「こんにちは。元気ですか?」
「はい、元気です」
「そうですか。仕事はもう慣れましたか? 大変でしょう?」
「はい。でも、しっかりやってます。ここに来て、仕事のときも、仕事がないときも、毎
日いろいろな人と、話します。私には、初めてのことです。今までは、一緒に話す人全然
いませんでしたから。それから、日記も書いています。夜寝る前に、疲れてねむ眠いときも、
なるべく毎日。初めてのこと、忘れたくないこと、忘れたいけど、書かなくちゃいけない
ことも。それから……」
「それから?」
「ここにいない人、未だ私が話したことのない、もっとたくさんの人たちと会いたい。そ
して、話したいです。今、話す人が全然いない人が、きっとたくさんいるから。そんな人
と、会って話したい。……すぐには話せなくてもいいんです。その人のそばにいるだけで
も。ほんの少しの間でいいから。その人が、何も口には出せなくても、いつかはきっと…
…。いつか、どこかで会えればいいね」
「きっと会えるよ。いつもその人たちのことを思っていれば。きっと。それに、君は色々
な人を結びつける、不思議な、見えない糸を持ってる様だから。君はずっと、どんなとき
でも、独りきりだったときも、その糸を大切にしてきた様だから。 ……それじゃ、また。
そろそろお昼休み終わった様だし。今日はもう行かなくちゃならないけど、きっとまた来
るよ。近い内に。元気で」
「はい。きっとまた会いに来て下さい。約束です!」

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